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11年度開催結果


1999年 作文の部<小学生部門>入賞作品
宇宙開発事業団理事長賞

「ゆめの出発点」
つくば市立竹園東小学校5年  隈元 利佳
 
 大きな拍手にまじって、かん声が聞こえる。ここは、火星オリンパス第一小学校。宇宙飛行士をかんげいする拍手が続く。

 人々は、二十年前からここ、火星に住んでいる。私は幸運なことに、火星への移住第一だんに入ることができ、その直後から、宇宙飛行士になる訓練を始めた。そして今回、火星から、太陽系の他の惑星を調査するための宇宙飛行が計画された。訓練のかいあって、私もそのクルーの一員に選ばれ、無事、任むは成功した。

 というわけで、火星オリンパス第一小学校の卒業生である私は、母校に招待されたのである。

「ワー。ワー。ワー。」

 体育館の中から子ども達のかん声が聞こえる。私が初めてこの火星にやってきたのは、あの子達と同じ年ごろだったのだ。私は、今までの火星での生活を思わずふり返っていた。


 火星での一日は、ボタンをおすことから始まる。シャッターのボタンだ。すると、人工太陽の光が部屋のおくまで差しこんでくる。室温は、いつも二十度に保たれている。

 これは、オリンパス地区全体を、大きな風船のような保ごまくでおおっているからだ。したがって、風もふかなければ、雨もふらない。火星名物の砂あらしだろうと、保ごまくの中にいさえすれば、その気配さえしない。


 これは、運動会や遠足にとって都合がよかった。学校行事はいつだって予定通りに行われた。

 それはよいことなのかもしれないが、明日の天気を気にしながら「てるてるぼうず」を作る楽しみはなかった。

 小学校の勉強は、登校せずに、自宅でパソコンを使って行われる。学校に行くのは体育と行事のある日だけだ。

 パソコンでのじゅ業で分らないことがあっても、オンラインでつながったテレビ電話により、先生が教えてくれる。学級会は、クラス全員が自宅のパソコンでチャットをして行われる。自宅にいながら先生や友だちと思うぞん分会話ができるというわけだ。

 でも、一人で勉強するのがさびしいと思うこともあった。地球の小学校に通っていたころはきらいだったそうじも、なつかしいとさえ思うこともあった。

 地球をなつかしむ人は意外と多かった。それは特に食べ物に関して多かった。なぜなら、火星での食事は、朝昼ばん一本ずつ栄養チューブを飲めばいいという味気ないものだからだ。その栄養チューブは、一人一人に合わせて計算され作られているので、それさえ飲めば一日に必要な栄養をすべてとれるということになっている。

 一度、九十キロをこす父のチューブをまちがって飲んだ時には、はき気とだるさで二、三日ひどい目にあった。

 人々は、地球時代の食べ物を高いお金を出してでもほしがった。

 特に人気があったのが、「虫食いあと付きキャベツ」、「いでん子そうさをしていないクローンでない牛肉」、「地球時代のだがし屋で売っていたラムネ」などだった。

 一方、科学技術もすさまじいいきおいで発てんしていった。木星の調査はすでに終了し、土星の調査が次の目標となっていた。

 今回の私の宇宙飛行も、土星のサンプルリターンがその目的の一つだった。火星オリンパス第一小学校のみんなにどんな話をしようか、私は考えていた。

「ワー。ワー。ワー。」

かん声が聞こえる。


「ワー。ワー。ワー。」

 ここは、つくば市立竹園東小学校の体育館。時は、一九九九年一月二十七日水曜日。

 私は、四年一組の友達と一しょに、向井千秋さんや、ジョン・グレンさん達を待っていた。なんと、この日、私達の学校を、スペースシャトル・ディスカバリー号の乗組員七人全員がおとずれてくれたのだ。

 火星オリンパス第一小学校の話は、向井千秋さん達を待っている間に、私がみた一しゅんのゆめだったのだ。

 まどから青いユニフォームが見えた。向井千秋さんが先頭だ。私はむ中で拍手をした。

 本物の宇宙飛行士の人達がいろいろな話をしてれた。ジョン・グレンさんが、

「宇宙飛行士になりたい人は算数と理科の勉強をして下さい。」

と話をしてくれたのが印しょうに残った。

 私がゆめに描いた火星での生活も、いつかは実現されるのだろうか。宇宙が無限なように、私のゆめも無限に広がっていく。そのゆめの出発点は、向井千秋さん達に会えたあの一月二十七日水曜日だったような気がする。


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